東庄町 御城印

須賀山城(すがやまじょう)

須賀山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に築かれました。標高50mほどの城山の周囲は、かつては低湿地に囲まれていたと思われ、天然の要害となっています。

源頼朝の旗揚げの際、ともに戦って功を上げた千葉(東)胤頼が、東庄と三崎庄(旭市)を拝領しました。そして居館を築いたのが須賀山城の始まりと考えられており、代々、東氏の居城として利用されていきました。

ちなみに胤頼は、三浦義澄とともに源頼朝に挙兵をすすめたとされる頼朝の側近中の側近です。

その後、須賀山城が手狭になったためか、西側に森山城が築かれ、両城が一体をなしながら戦国の城へと改修整備されたと思われます。

千葉氏が小田原北条氏に属すと、常陸の国境である須賀山城、森山城はさらに重要性が増し、須賀山城は森山城の「外郭部」としてさらに改修整備されていった思われ、城内には戦国期の遺構が良好に残っています。

西麓の東氏の菩提寺である芳泰寺には、胤頼夫妻のものと伝わる墓が残っており、また、北東麓の東福寺は胤頼の父である千葉常胤ゆかりと伝わる薬師如来を本尊としています。

さらに、この寺には天正6年(1578年)の千葉邦胤に関する古文書も伝わっており、戦国時代になってもこの地域と千葉一族の繋がりの強さがわかります。

デザインの説明

御城印には、連携して機能していたであろう須賀山城と森山城の築かれた台地と、かつて北方に広がっていた「香取の海」をデザインしました。そして、千葉一族である東氏の家紋「九曜」を配置し、東常縁の絵図をモチーフにしました。

常縁は、東氏のもう一つの所領であった美濃国の篠脇城主でした。享徳の乱の際に下総で千葉氏の内紛が起きると、室町幕府から東国に派遣され、森山城に入ったとされます。また、東氏は代々和歌の家柄で、特に常縁は古今伝授を行えるほど、当代きっての一流の歌人でした。東氏の祖である胤頼も和歌や文化に秀でていて、朝廷から昇殿を許される従五位下を賜っていました。

なお、東庄町発行の須賀山城、沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。






沼闕城(ぬまかけじょう)

沼闕城は、「東庄県民の森」となっている比高20mの台地に築かれ、かつて存在した「椿の海」に向かってそびえ建っていたと思われます。大部分が公園化して原形が失われてしまっているものの、要害だった趣を十分に残しています。

現在、補陀洛山福聚寺が建つ場所は、沼闕城の主郭だったと思われ、周囲には土塁、空堀、腰曲輪などの遺構が残ります。

北方は「香取の海」に面し、陸奥に繋がる交通の要衝でもありました。

源頼朝の鎌倉幕府設立に尽力した千葉(東)胤頼の三男盛胤が居館を築いたのが始まりとされ、その後も千葉氏の庶流である東氏が沼闕城主となりました。

東氏は戦国時代には主家の千葉一族とともに小田原北条氏に属し、天正18 年(1590年)の小田原合戦で滅びたとされます。

沼闕城はその地名から、別名「小南城」とも呼ばれ、この小南には徳川家康の関東入封の際、松平(久松)定勝が3000石で入部しました。定勝は家康の義弟で、伊予松山藩祖となる人物です。

このことからも、沼闕城が築かれた小南の地の重要性がわかります。

デザインの説明

沼闕城の南方にはかつて「椿の海」が広がっていました。椿の海は、海上(うなかみ)、香取、匝瑳(そうさ)の3 郡にわたり、東西10kmを超える大きな湖でした。

寛文11年(1671年)に、鉄牛和尚が干拓事業を完成させました。それにより、18の村ができ、「干潟八万石」と呼ばれる一大穀倉地帯となりました。椿の海は、城下にある「八丁堰」として名残りをとどめています。

その功績により、鉄牛和尚は寺地を幕府から寄進され、福聚寺を建て晩年を過ごしました。

御城印には椿の海と、その椿の海に向かって張り出す沼闕城の台地をモチーフにしました。そして、千葉一族である東氏の家紋「九曜」をデザインしました。

なお、東庄町発行の須賀山城、沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

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